パレンケ遺跡(マヤ文明)メキシコ
パレンケは古典期(西暦300年〜900年)に栄えた、マヤ文化圏西部に位置する古代都市。同時期に、東部ではティカル、カラクルム、コパンといった大都市が栄えていたが、それらと肩を並べる存在だった。
  パレンケが有名になったのは、1952年に、碑銘の神殿(上写真)と呼ばれるピラミッドの発掘調査でパカル王の墳墓が発見されたことからだ。その石棺の中には緑色翡翠の仮面をかぶった王の遺体が安置されていた。これにより、マヤのピラミッドは王墓としても作られていたことが明らかになったのだ。
 以前は、上部の神殿からピラミッドの内部にある墓に入ることができたが、現在は神殿に登ることもできない。


パレンケは、メキシコ南東部のチアパス州にある。ビジャエルモサから空港経由のバスがパレンケまで出ている。サン・クリストバル・デ・ラス・カサスからもバスが出ている。パレンケから遺跡までは乗り合いのバンやタクシーで15分程度。

 

遺跡に入ると、最初に現れるのが「碑銘の神殿」のグループ。手前に髑髏の神殿と呼ばれるTemplo12、その先に「赤の女王」の石棺があるTemplo13、優美なピラミッド型の碑銘の神殿と並ぶ。さらに、左奥には宮殿が見える。


Templo13の内部にある「赤の女王」と呼ばれる女性の石棺。


整ったピラミッド型の碑銘の神殿。以前は神殿に登り、パカル王の墓にも入れたが、今は登ることもできない。


メキシコシティの人類学博物館にあるパカル王の墓の復元模型。


碑銘の神殿の斜向かいにあるのが、宮殿(El Palasio)。四層の塔を持ついかにも宮殿らしい平べったい建物。四層の塔は、以前は天体観測用と言われていたが、現在では、物見の櫓だったという説などもあり、本当の用途はよくわかっていないようだ。


宮殿の内部には、戦争でとらえた捕虜を引き出したという広場や、捕虜たちを彫刻した石版、神聖文字の階段などがある。複雑な内部構造もあってなかなか見応えがある。


葉の十字の神殿の上から見た景色。ここには小規模な広場を中心に、十字の神殿、葉の十字の神殿、太陽の神殿の3つの神殿などがある。このうち、最も高い十字の神殿(右)はピラミッドの全体像が分かる程度に修復されている。左の小さなピラミッドが太陽の神殿。奥に宮殿が見える。


葉の十字の神殿はいまだに修復されておらず、ピラミッド部分は土に覆われている。


十字の神殿グループの南側にはTemplo17からTemplo22までの小規模な神殿群が林の中に点在している。南の奥にあるのがTemplo19で、ここにはパレンケ王の彩色レリーフが施された柱や王の姿や神聖文字が刻まれた玉座などがありる。これはもちろんイミテーションで、本物は博物館に収められている。


十字の神殿グループに隣接した林の中にあるTemplo17。この壁に置かれた石板に、パレンケと近隣の都市が戦争をして勝利したことを意味する彫刻が施されていた。


宮殿から北に向かうと、最初にあるのがマヤの重要な儀式である球技を行った球技場(juego de pelota)。


球戯場の北側にある小規模なピラミッド型神殿Templo10。周囲は公園風に整備されており、豊かな緑の中に佇む時代を超えた神殿群は雰囲気が良い。




勝手に評価/お勧め度 ★★★
★★★★★=文句なしに素晴らしい、絶対お薦め。
★★★★=かなりいい、一度見てほしい。
★★★=なかなかいい、見逃すのは惜しい。
★★=まあまあ、期待しないで見てみてはどうでしょう。
★=特にお勧めはしません。

碑銘の神殿は他のマヤ遺跡のピラミッドと比べても遜色なく美しい形をしている。宮殿もかなり立派な建物だ。劇的な発見の舞台だけに、かなり有名で訪れる人も多い。

ただ、他のマヤの大都市と比べてしまうと物足りなさが残る。また、碑銘の神殿に昇れなくなり、王墓を見れなくなったのも残念。いい遺跡ではあるが、それほど期待しないほうがいいと思う。

周囲は原生林になっていて、神秘的な感じがするが、観光客が増え、整備も進んだことで神秘性が薄れているのが残念。
 遺跡から少し山を下った場所に博物館があり、遺跡から出土した石のレリーフなどが展示されている。

パレンケの町自体アクセスはあまり良くないが、町からは乗り合いのバンが頻繁に出ている。観光客相手のタクシーも多い。パレンケの町は観光客用のホテルやレストランに事欠かないほど整備されている。

 

ラテンアメリカ博物館
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